清春白樺美術館にて開催中の「清春縄文展」に脇田玲が参加しております。


2022年1月15日(土)より、清春白樺美術館にて開催中の『清春縄文展 – 不可視化する時代のアート 』に脇田玲が参加しております。同じ北杜市内の中村キース・ヘリング美術館にて開催中の脇田玲の展覧会「アランとキースのために」と合わせてご覧ください。

不可視化する時代のアート

私は数値流体力学に基づく作品をつくる過程で、流れの造形に対して体の奥底から湧き上がる不思議な感動、根源的な美的感覚を感じているのですが、縄文土器を目の前にした時、全く同じでは無いにせよかなり近い感覚が身体を満たしていることに気がつきました。
突如出現する力強い渦巻、複雑なアンシンメトリーでありながら崩れるのことのない調和、爬虫類や両生類を思わせる有機的な曲線や曲面。これらの造形的特徴が両者に共通しているのです。現代の技術の象徴であるコンピュータを駆使して浮かび上がらせる流体のイメージが、縄文時代の象徴である土器のパターンによく似ているのはとても不思議なことです。
コンピュータがなかった時代に、なぜ縄文人は複雑な流体的造形をつくりえたのでしょうか?縄文人はどのような風景と世界を見ていたのでしょうか?生きるか死ぬか、狩るか狩られるかというのっぴきならない状況で、全身全霊で獲物と向き合う激烈な日常を過ごしていた縄文人は、我々の想像を絶する身体感覚や空間感覚を持っていたことでしょう。そのような身体と空間に加えて、縄文特有の呪術的精神世界が彼らの創作物に関係していたのかもしれません*。
一方で、コンピュータ全盛の現代は、ビックデータやAIによる「見える化」が進んでいるようで、実は「不可視化」が進んでいる時代なのかもしれません。コロナ禍において我々は真実をみようと努力しています。しかし、多くの人は自らの手で直接データに触れることはなく、その代わりに、扇動的な見出しやフェイクニュースが横行するマスメディアから世界を捉えようとしているようにみえます。かつての縄文人のように、現代人はデータの森を駆け抜け、全身全霊で真実を捉えようとする身体を獲得すべきではないでしょうか。
我々には何が見えていて、何が見えていないのか。縄文人は我々よりも多くのものを見ていたのではないか。パンデミックで混乱した世界の中で、そのような問いが浮かび上がります。この展示では、縄文時代の土器や石器とデータサイエンスに基づく映像を併置することで、我々にとって「見る」「見える」とはどのようなことなのか改めて問いたいと考えました。

                                         ― 脇田玲

*岡本太郎はそのような縄文人の感覚を四次元的世界と名づけ、『縄文土器論』で彼らが見ていた世界と土器造形の関係を紐解こうとしました。